ニューヨークにあるセラー・カフェというライブ・スペースは、アルバート・アイラーがプレイした場所であると共に、ビル・ディクソンというトランペッター、(その顔はSAVOY盤でシェップと共に写っているのが有名)が、自ら「ジャズの10月革命」と名付けたコンサート・シリーズを64年10月1日~4日まで行ったことで、今日まで名を残すことになる。
さまざまな意義と、問題点をかかえたこのコンサートは、新しく台頭している音楽を、それらを欲しているオーディエンスに提供するばかりではなく、ミュージシャン同士のディスカッションも行われ、そこにはオーネット・コールマンも参加していた。

この「革命」は、新たな組織、ジャズ・コンポーザーズ・ギルドを生み出し、その創立メンバー11人の中にポール・ブレイもいた。
そして、同じ64年の12月には、ギルド結成を祝してのコンサートをジャドソンホールで行っている。
この時期の録音はフォンタナ盤や、カーラ・ブレイ/マイケル・マントラーが主導権を握ったかのように見えるJCOAの諸作で耳にすることができる。
さらに言えば前述したSAVOYのほかESP、IMPULSE、RCAなどのレーベルで、ムーヴメントの全貌をつかむことができる。
しかし、ムーヴメントの変遷を追うならば、64年からの数年を追えば、それで済むという問題ではなく、逆に64年の「革命」を知るには、その先も知らなくてはならない。

ポール・ブレイが、ジャズ・コンポーザーズ・ギルドに参加していながら、その周辺から彼の名が消えたのは早かった。
プライベートなことなどブレイが居易い場所でなかったことは、容易に想像がつく。
けれど、ブレイの傷の付き方の深さは、人間関係によるものだけではなく、それによって音楽的な創造に邁進出来る環境を乱したかったからだと思う。
64年からブレイは、ほとんどトリオでの録音をし、また、新たな理論によるシンセサイザーの使用法を模索したグループ、シンセサイザー・ショーをアネット・ピーコックと共に発足させた。
64年からの10年間の事は自伝「Stopping Time」にも触れられている。
それは噛み砕いて新たな章で紹介したいと思う。

70年代に入って、ネオ・バップ・ムーブメント、ソロ・ピアノ・ブーム、そして、その半ばから後半にかけてロフト・ジャズ・ムーブメントが勃興した。
ミュージシャンが自分のコンサート・スペースを維持/管理することを含むロフト・ジャズのムーブメントは、ジャズがまたより一歩自立する方法論を選んだことを示した。
その先駆者、サム・リヴァースもIAIに録音を残しているが、それは64年の10月革命とは無関係ではないはず。
ジャズ・コンポーザーズ・ギルドという組織の解体は、あまりに早かったけれど、そこに参加したミュージシャンの意志は、それぞれ個々の思惑によって生きていくことになる。
それら視線はあまりにも様々な方向へと配られていった。
しかし64年から10年後にブレイがレーベルを立ち上げたことが、彼流の64年の引き摺り方だったという論考はあまり見当たらない。
一つには、ミュージシャンズ・レーベルの目新しさのようなものもあるだろうが、64年、間違いなく現場、あるいはその周辺にいたミュージシャンの録音/リリースを行ったのはブレイの慧眼を含む行動力の現れだと思う。

70年代の複雑にからむシーンの中にあって、IAIは、あまりに真っ当な、真直ぐなレーベルであったかのように見える。
しかし、IAIをJCOAなどのレーベルとドッキングする事によって、ブレイの思考がくっきりと見えてくる。
遅れてきた60年代、また、80年代が見えないと揶揄されようが、IAIは、チャーリー・クリスチャンの時代を受け継ぎ、現在のインプロ・シーンを示唆してやまないレーベルなのだ。
64年からの10年目を照らし出したIAIが再び起き出したのには大きな意味がある。
その検証が始まる。